クラウドは文化ではなく文明である
司馬遼太郎の作品の中に、アメリカ素描というエッセイがあります。日本や中国、そしてモンゴルについて書かれた作品は多々ありますが、おそらく、アメリカを書いたものとしては、唯一のものではないかと思います。
この本で司馬は、風習や集落の以前に、法から始まった唯一の国家が、アメリカであると定義しています。つまり、文化ではなく、文明からスタートしている実験国家が、アメリカであると言っているのです。
なにやら、オンプレミスとクラウドの対比に似ていると思い出し、以前に読んだ本を引っ張り出し、再読している最中なのですが、そこから以下のくだりをご紹介したいと思います。
ここで定義を設けておきたい。文明は「誰もが参加できる普遍的なもの、合理的なもの、機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。
たとえば、青信号で人や車は進み、赤信号で停止する、この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本で言うと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣に住む魚のような安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。
ーーー アメリカ素描:司馬遼太郎(著):新潮文庫
なにやら、霞ヶ関クラウドというものが、どのようなものになるのかと、とても気になってしまう論旨です。やはり、黒船が着てくれないと、日本のクラウドは始まらないのでしょうか?
司馬遼太郎的クラウド観_1
司馬遼太郎的クラウド観_2
司馬遼太郎的クラウド観_3
司馬遼太郎的クラウド観_4








