Agile Cat — Azure & Hadoop — Talking Book

September 23, 2009

司馬遼太郎的クラウド観_1

クラウドは文化ではなく文明である

司馬遼太郎の作品の中に、アメリカ素描というエッセイがあります。日本や中国、そしてモンゴルについて書かれた作品は多々ありますが、おそらく、アメリカを書いたものとしては、唯一のものではないかと思います。

20092009076

この本で司馬は、風習や集落の以前に、法から始まった唯一の国家が、アメリカであると定義しています。つまり、文化ではなく、文明からスタートしている実験国家が、アメリカであると言っているのです。

なにやら、オンプレミスとクラウドの対比に似ていると思い出し、以前に読んだ本を引っ張り出し、再読している最中なのですが、そこから以下のくだりをご紹介したいと思います。

ここで定義を設けておきたい。文明は「誰もが参加できる普遍的なもの、合理的なもの、機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。

たとえば、青信号で人や車は進み、赤信号で停止する、この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでいる。普遍的という意味で交通信号は文明である。逆に文化とは、日本で言うと、婦人がふすまをあけるとき、両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいい、という合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質なのである。同時に文化であるために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣に住む魚のような安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこむわけにはいかない。だからこそ文化であるといえる。

ーーー アメリカ素描:司馬遼太郎(著):新潮文庫

なにやら、霞ヶ関クラウドというものが、どのようなものになるのかと、とても気になってしまう論旨です。やはり、黒船が着てくれないと、日本のクラウドは始まらないのでしょうか?

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September 22, 2009

司馬遼太郎的クラウド観_2

クラウドはステイツの所産なのか

言うまでも無く、アメリカは世界で唯一の移民でできあがった国家であり、新大陸を求めるヨーロッパからの人々により建国されたのちに、アジアや中南米などからの人々を受け入れることで、人種という壁を希薄なものにしようと試み続けてきました。

もちろん、 良いことだけがあったわけではなく、人種の差別に根ざした数々の問題も引き起こしてきましたが、オバマ大統領を選んだことにより、ひとつのハードルを飛び越えたようにも思えます。

ここで、アメリカ素描から引用 ・・・

「ザ・ステイツ(the states)」

とよんでいることに関心があった。合衆国という簡略語である、といってしまえばそれでしまいだが、私の感覚には語感として、

「アタシの人工的な国家は」

といっているように、ついひびいてしまう。法でつくられたる国というひびきである。

言いかえれば、文明という人工でできあがった国ということばに違いない。逆にいえば、韓国やアイルランドや日本のように文化の累積でできあがった国は、State ではない。

人間は群れてしか生存できない。その集団をささえているものが、文明と文化である。いずれもくらしを秩序づけ、かつ安らがしている。

ーーー アメリカ素描:司馬遼太郎(著):新潮文庫

たしかに、私たち日本人が、日本を指して国というものを考えるとき、理屈で割り切れない何ものかがが渦巻いてしまい、その抽象化も困難なものとなりますが、明確なルールに基づいた国というイメージが、アメリカ人の中には存在するのだと思います。

持ち続けてきた文化を捨てて、アメリカという合理に署名した人々や、その子孫にとって、IT による合理化、あるいは、IT 自身の合理化であるクラウドなどは、朝飯前のことなのでしょうし、それを諦めた途端に、ステイツを支える合理性が崩壊してしまうのでしょう。

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September 21, 2009

司馬遼太郎的クラウド観_3

エネルギーとクラウドに浮かぶアメリカ

シリコンバレーを南北に走る 101 は有名なフリーウェイですが、それと平行して、西側の稜線をつたってサンフランシスコとサンノゼを結ぶのが 280 です。その近辺は、いかにもアメリカの南という感じで、夜には不気味なほどの樹木が、それこそ Billie Holiday の奇妙な果実の世界のように鬱蒼としています。

もう 10年以上も昔のことですが、その近辺にお呼ばれがあり、道すがらの緑の深さに驚いたと、招かれた家の主人に話したときに、すべて散水で生きながらえている木々だと教えてもらったことがあります。

ここで、アメリカ素描から引用 ・・・

さて、ツタと並木や農場の緑である。
「雨が降らないのに、どうしてあれが生えてくるんです」
と、車にのせてくれているマーガレット・鳴海にきいてみた。

「スプリンクラーです」

よくみると、ところどころに、地表から十センチばかり、土壌色に塗られたパイプラインが出ている。間歇的に、下からシャワーを噴き上げ四方をうるおしているのである。

「その水は、どこからひいているんです」

「遠くの川や湖から」

と、マーガレットは気のなさそうにいう。彼女にとってこれほど退屈な話題はないだろう。彼女のうまれるよりはるかなむかしからこうなっていて、はるかな水源地で働いている揚水ポンプも、また送りだしのための電気装置も、あるいは噴きあがらせる装置も、彼女にとってはもはや自然の一部のようなものであるにちがいない。カリフォルニア州が世界一の農業生産地であることは周知のことだが、本来砂漠であっていい土地に灌水して農地にし、あとは太陽にキスさせるということでなりたっているのである。

「そういう装置がないとどうなるのでしょう」

「砂漠になります」

ーーー アメリカ素描:司馬遼太郎(著):新潮文庫

本文中で司馬も言っているように、カリフォルニアは肥沃な土地ではなく、肥沃な太陽とエネルギーの上に成り立っている州なのです。そう考えてみると、アメリカという国自体が、エネルギーの上に浮かんでいるような気がしてきます。

クラウド、そして、スマート・グリッドへと邁進していくのは、誰も止めようがないことなのだとも思ってしまいますね。

 

 

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September 20, 2009

司馬遼太郎的クラウド観_4

重文化のアジアに生まれて

今回の政権交代で、明治以来の官僚統治機構が終わるのか、終わらないのか、これからの展開を見ていきたいと思います。明快なロジックだけでは割り切れない、重い文化に覆いつくされてた社会の停滞に対して、大半の国民が NO を突きつけるところまで、ようやくとはいえ、たどり着いたのは喜ばしいことかと。。。

ここで、アメリカ素描から引用 ・・・

私はこのひとにむかい、アメリカをことさらに概念化して意見をのべた。つまり、アメリカとは文明だけでできあがっている社会だとした。しかし人は文明だけでは生きられない、という前提をのべて、だからこそアメリカ人の多くは、なにか不合理で特殊なものを(つまり文化を)個々に探しているのではないか、といったところ、このひとはながらく考えてから顔をあげた。

口から出たことばは、べつの主題のことだった。

「もしこの地球上にアメリカという人工国家がなければ、私たち他の一角にすむ者も息ぐるしいのではないでしょうか」

かれは、経済や政治の問題をいっているのではない。

いまもむかしも、地球上のほとんどの国のひとびとは、文化で自家中毒するほどに重い空気のなかで生きている。そういう状況のなかで、大きく風穴をあけたのが、十五世紀末の ”新大陸発見” だった。

アメリカ大陸が “発見” されると、ヨーロッパから、ほうぼうの国のひとびとがきて、合衆国を作った。独立宣言からいえばわずか二世紀前のことである。

いまはアメリカで市民権をとることが容易ではないにせよ、そのように、文明のみであなた OK ですという気楽な大空間がこの世にあると感じるだけで、決してそこには移住せぬにせよ、いつでもそこへゆけるという安心感が人類のどこかにあるのではないか。この人のみじかいことばは、そういう意味のようであった。

ーーー アメリカ素描:司馬遼太郎(著):新潮文庫

しょせんは重文化に天井をおさえられた狭苦しい空間のなかで、日本の IT も歩み続けなければならないのでしょうが、ちょっと明かりが見えてきたように感じますね。

Mitsuike 09_09_21 

三ッ池公園にて

さ~て、連休も今日で終わりです。そこまできたクラウドを信じて、明日からもボチボチとポストし続けていきたいと思います。 ーーー A.C.

 

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本 : 日本語が亡びるとき

August 2, 2009

闘うプログラマーの復刻版が登場

Filed under: Books — Agile Cat @ 8:16 am
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闘うプログラマー[新装版]:ビル・ゲイツの野望を担った男達

Azure チームのコアにいた Dave Cutler さん。このタイミングで [闘うプログラマー] の復刻版が出るとは、なにかのめぐり合わせなのでしょうかね。

http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P47570.html

Cutler 復刻

価格 : 1,890円(税込み)
ISBN : 978-4-8222-4757-7
発行元 : 日経BP社
発行日 : 2009/07/27

成毛さんの解説が、ブログに掲載されていました。。。

April 1, 2009

本:クラウド化する世界

Filed under: Books — Agile Cat @ 5:23 pm
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The Big Switch

Nicholas Carr の有名な著作である、「The Big Switch」なんだけど「クラウド化する世界」を読みました。 ・・・ と言う、トゲのある書き出しには、それなりの理由がありますが、それはさて置き、良書だと思います。ちょっと厚くて重たいですが、電車の友になりますので、お勧めです。

とくに前半の、公共的な電力ビジネスの成り立ちについての説明と、ユーティリティ・コンピューティングとの対比は、とても分かりやすく、また、IT を捨てられなくなる私たちの世界を的確に表現しています。この部分だけでも、読む価値はあると思います。 ただ、そこに至る過程で、儲けすぎてしまった Bill Gates を目の敵にしても、仕方ないのかとも考えてしまいます。

クラウド化する世界

Thomas Friedman  は「The World is Flat : フラット化する世界」で 、インターネット・インフラへの過大な投資が、その後の M&A や整理統合をもたらし、ネットワークを安価なものにしたと述べています。ユーティリティ・コンピューティングにおいては、さらにメモリやストレージというハードウェアに対して、そしてソフトウェアに対して、積み上げられた過大な投資が基盤を作っているのではないでしょうか? そこにいたのは無数の敗者たちで、一握りの勝者だけではないですよね。

と、ついつい、タイトルから比較してしまうのですが、この本は「クラウド化する世界」ではないので、Friedman  と並べて考えていけないのでしょう。前半はまだしも、後半になると、Carr 自身が抱えている恐怖があふれ出てきます。でも、「The Big Switch」なので、つまり大転換期なので当然なのですよ。この本を読みながら、「アレ?」と思うときには、その原題を思い起こしてみると納得できるのではないでしょうか。

ものごと急には変わりません。さまざまな流れの中で紆余曲折があって、大きな流れに束ねられていくのだと思います。パターン言語の考案者であり、ファウラーたちに大きな影響をおよぼした Christopher Alexander は、その著書である「オレゴン大学の実験」で、ものごとは漸進的にしか進まないと言っています。 それが、この世の道理です。その点、Carr は、これまでのプロセスを飛ばして考え過ぎると、感じてしまうところもあります。

最後に、David Chappell の一言を転記します ・・・

需要に応じてピークを処理することが可能な、火力発電所に依存する電気事業者のように、オンデマンドにおけるコンピューティングの負荷を、余裕を持って安価に処理できるのがクラウド・プラットフォームである、という主張をしばしば耳にする。 しかし、それが可能になるのは、クラウドでもオンプレミスでも、ひとつのアプリケーションを変更することなく実行できる場合に限られる(そして、同じバージョンのアプリケーションとデータを、双方の環境で得られるなら、、、と私は思う)。

・・・ う~ん、解らない。いろいろと考えてはいるのですが、解らない。 ひょっとして、オンプレミスからクラウドへ向けた、売電ができなければダメとでもいって言ってるのでしょうかね?

 

March 8, 2009

本:あしたの虹

Filed under: Books — Agile Cat @ 10:51 am

ケータイ小説なるものを読んでみました ・・・

いま話題のケータイ小説で、パープルこと瀬戸内寂聴の「あしたの虹」を読んでみました。そのケータイ小説って何だ? ・・・という方(私も)が、この種のブログでは殆どだと思いますので、小説としての評価は抜きにして、いったい何なのかという視点から雑感を綴ってみます。

まず、ケータイで書くから、読者もケータイでという、きわめてデバイス・オリエンテッドというか、ジェネレーション・オリエンテッドというか、そういうところから始まった文化であることに間違いはないでしょう。しかし、この本が出版されたときの新聞の記事では、原稿用紙に向かってと紹介されていたので、それが何でケータイ小説なのかという疑問も、読もうと思う動機のひとつにありました。しかも、本屋で普通の書籍のスタイルで売られているという、書き手も読み手もケータイから乖離した、ケータイ小説です。頭が混がらがってきますが、どうやらケータイ世代向けの小説と考えれば良いようです。

あしたの虹 b

この作品の要件定義についてまとめてみると・・・

文字を少なく、文脈を簡単にして、読書離れ世代の手の届くところに提供する。
ーーー そう言えば、電車の中で文庫本を読みふける高校生って見ませんよね。

章立てを差し替えても読めるようにするくらい、各章間の参照関係を希薄にする。
ーーー それにより、連載小説の読み落とし分を、補完できる構成になるんでしょうか。

さりげなくケータイ文字を挟み込んで、ターゲット世代向けにカスタマイズする。
ーーー とにかく、取っ掛かりって大事ですからね。

・・・という感じだと思います(あたっているのかどうかは、わかりませんが)。

そして、肝心の文体ですが、、、ここが、一番の興味だったのは言うまでもありません。どのようなものなのかと言えば、これ以上の単純化は不可能だろうというくらいの、いわゆるケータイ文体(?)でした。削ぎ落として、削ぎ落として、頭の中に何もスタックを積まなくても読めるような、そして、絞り込んだ少ない語彙で表現できるような、そんな作品にしたのだろうと思います。

そこが、瀬戸内寂聴のチャレンジであり、出版社側の実験だったのでしょう。小説の場合は「せりふ」で文脈をワープさせることができるので、その他の文書と比較しようがないのですが、見習うべきところがあるように思えます。その意味で、考えさせてくれます。

なぜシンプルな文章が書けないのかと、悩みをお持ちの方には(私も そうです)、1000円 + 2時間のコストも見合うのかもしれません。

March 4, 2009

本 : 日本語が亡びるとき

Filed under: Books — Agile Cat @ 11:32 am

ちょっと面白い本を読んだので ・・・・

読んだのは「日本語が亡びるとき:水村美苗」で、しばらく前に本屋で手にしましたが、ずっと表紙も開かずに机の片隅に置きっぱなしになっていました。一応、仕事のお品書きに翻訳も入れている私にとって、この本の命題とも言える「言語的な孤立」は気になっているテーマでして、IT というものを表現するメタ言語である英語と、そこに従属する日本語との間に存在する、溝というか壁というか何んというか、それを解き明かしてくれればという思いがページを先へ先へと進ませてくれました。

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ちゃんとした書評が読みたい人は、Amazon を見てください。そう言えば、好意的な書評が意図的に消されると、ちょっと話題になっていましたね。おそらく、日本語に限らず、国語というものには永続性が無いという論点と、明治以来の政府が日本語を大切にするいう意味で、まったく無能であるどころか壊し続けてきたとの指摘が、そのような反感を呼んだのかと思います。

それはさて置いて ・・・

言語のスコープを、普遍語、国語、現地語と切り分ける、著者の合理性には賛成ですが、はたして合理で良いのかという疑問が残ります。しかし、普遍語として日本の社会にポジションを確立しつつある英語、そして国語という不安定なものから、やがては現地語というポジションに移行するかもしれない日本語。その流れを加速するインターネットと、Google 図書館。認めたくなくても認めざるを得ない近未来が、そこにはあると思います。救いは、かくも漱石を愛してやまない著者から、こうした事実が語られている点です。漱石に限らず、日本の近代文学への思いが、この本の全体を覆っているから、多少の暴論も許せてしまいます。

この本の一節にありましたが、かつてジョン・アップダイクが Newyork Times で、「英語で読む限り、漱石が偉大な作家である理由が解らない」と評したらしいです。それこそが、著者が憂える「日本語が亡びるとき」の本質のひとつを、つまり翻訳の限界を言い表しているのかもしれません。翻訳に耐え得るディスティネーション言語として磨かれ続けてきた日本語と、その必要性がまったく無かった英語との間には、一方通行の流れが確立したしまったようです。悲しいやら寂しいやらですが、日本語で漱石を読めるということは、何事にも替えがたい幸せなんだと、ここはひとつ、プラス志向でまいりましょう。

IT 業界にいて、日々、英語と格闘している方には、現実の再認識という意味で、お勧めの一冊です。私の場合は、英語を解読したり翻訳したりという行為の、必然性と重要性について、とても素直に受け入れられるようになりました。

すでに読み終わっていて、なんとも言えない不安感が、、、という方には、江戸末期から明治を書いた、司馬遼太郎の一連の作品がお勧めです。こちらは、千年以上に渡り漢学を学問とし、さっさと蘭学に切り替え、さらには英学へと対応していく柔軟性こそが日本人の優れたところと、楽観的な気分にさせてくれます。つまり、翻訳ディスティネーションで、文化ディスティネーションで、何が悪いって開き直っているわけです。その反面、モンゴルものエッセイでは、私たち日本人はウラル・アルタイック語族に入るという、水村がまったく触れていない別の意味での「言語的な孤立」を指摘しています。いわゆるセマンティック Web などを考えると、こちらの方が深刻なのかもしれません。

それにしても、日本語を大切にしていきたいと思います。

・・・ と言いつつ、いつもの駄文でスミマセン。

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